「あ、共感とかじゃなくて。」備忘録
お久しぶりです。(もはや久しぶりなのがデフォルトになってる気がする。)
言い訳すると、本業の締め切りに追われる半年を過ごしておりました。ひとつ終わると次、次、次…闇深ぁ…疲れたよ、パトラッシュ……
先日一人でふらっと行ってきた展覧会でいろんなことを感じたのに、時間が経つと忘れてきていることに気づいたので、本格的に記憶の引き出しにしまい込んでしまう前に書き残しておこうかと。
行ってきたのはこちら
↓
「あ、共感とかじゃなくて。」
How I feel is not your problem, period.
2023年7月15日(土)- 11月5日(日)
参加アーティストは、
有川滋男(ありかわしげお)さん、
山本麻紀子(やまもとまきこ)さん、
渡辺篤(わたなべあつし)さん/アイムヒア プロジェクト、
武田力(たけだりき)さん、
中島伽耶子(なかしまかやこ)さん。
この秋「共感」について考える機会をいただいたのもあって、展覧会についてたまたま知ったとき「これは…行かなきゃいけないのでは!?」と義務感が生じた。その場ですぐにチケットをポチったのはいいものの、いざ当日になると新たな締め切りのせいで若干焦燥感を抱えつつ行く羽目に。
結論、行って良かった。締め切り前でヤバかろうが何だろうがあれは行ってなかったら後悔してた。
んで、普段は買わないパンフレットも買ってしまった。まあ、それを片手に今ブログを書いているわけなので、ちゃんと買った意義はあった。良かった。
さて、本題。
まず惹かれたのは展覧会のコンセプト―”見知らぬ誰かのことを想像する展覧会”。
それを特に感じたのは、渡辺さんの一連のプロジェクト。そこには、社会的に不可視化されている、そして同時に偏見が持たれている人たちの、決して一括りには語れない個々人の生き様が作品として可視化されていた。
しかも、タイトルの通り、”必ずしも共感しなくてもいい”ってことを前面に打ち出している。なにそれ、既に良い。研究者がうんうん唸りながら「共感」について議論した結果がもうここでは大衆に訴えうる観念として成立している!と乾いた笑いが思わず出てしまった。
私が行った日は世間一般の休日だったこともあり、また、「デイヴィッド・ホックニー展」も開催中だったため、ものすごい混んでた。普段混んでない時間を狙って行く私は正直エントランスの時点で萎えてたのだが、展覧会の性質上、むしろ良かったのかもしれないと今は思う。
というのも、周りの人の「どういうこと?」「わかんない」という素朴なわからなさも、「こうだと思う」という解釈も、「これすごいいいな」「え、そう?こっちの方がなんか好き」といった違いを違いとして受け止め合う会話も、”必ずしも共感しなくてもいい”の体現だと思えたから。そういう声は作品に感化されて生じているとしたら、その磁場特有のものであって、だとしたらそれらもまた展覧会の一つのエッセンスだったのだと思う。
特に、有川さんの映像作品の展示ブースで隣にいた父親と思わしき方とその娘さんらしき子(小学校低学年くらい?)の会話が印象に残っている。
子「わからない」
父(仮 以下略)「○○が出てきたけどあれなんだったんだろうな。なんだと思った?」
子「~~じゃない?」
父「なるほどね。~~に見えたのか。」
子「ちがうの?」
父「ううん、**(子の名前)は~~だと思ったんでしょ、ならそれでいいんだよ」
子「でもあとはわからなかった」
父「そのわからないってことも**の感じたことだから大事にしていいんだよ。でも考えるのはやめちゃだめだよ」
……いや、文字に起こしてみて改めて思ったけど、お父さん(仮)教育者としてめちゃくちゃ善いな!?!?自身の感情や経験を言語化させ、わからなさも含めたそれらを肯定し、その上で考え続けるよう促す。家庭教育って机上の学習を見るって意味だけじゃなくて、こういう日頃のコミュニケーションの中でなされていくことこそ重要なんだろうなって(教育社会学の理論やら先行研究を一旦脇においたとしても)感じざるを得なかった。
……ちょっと話ずれちゃったな。とにかく、そういう話声が溢れていて、みんながわかりやすい何かに「わかる」と言うのではなく、ひたすらに思考し続けていて良かった。
今回展覧会に行って、改めて思ったのは、「共感」自体を否定はしないが、その限界を認識しなくてはならない、ということ。なんでもかんでも”共感が大事!”で済ませてはならない。なぜなら、他者の、そして自分の感情や経験に本当の意味で向き合えていない事実を共感規範は覆い隠してしまうから。そして、残念ながら、大抵「共感」は、現状のマジョリティ‐マイノリティ間の権力勾配を維持するベクトルに作用する(し、そのこともまた不可視化されてしまう)から。
それはパンフレットを読んで再確認したことでもある。
中島さんの作品「We are talking through the yellow wall」という大きく空間を断絶する壁には一方にはスイッチが設置されていた。私は何ともなくそれを押してみたが、押しても何が起こるわけでもなかった。次に、壁の反対側に行くとそちらは暗くて狭い空間になっていて、時折ライトがついたり消えたりする。連続でぱちぱちと切り替わると目がおかしくなりそうで、たまらず外に出た。あのスイッチってこのライトのだったのか…
その時は、そこで思考が止まっていたけど、あれはマジョリティ‐マイノリティ間の非対称性を表現していたんだとパンフレットで知って納得した。あの暴力性に、好奇心からなんとなくスイッチを押す側は気づかないんだよ。
もしまた再び開催されることになったら、今度は周りの人にも一度足を運ぶよう勧めたい。なんなら一緒に行きたい。きっと一緒に行く人によっても考えること話すことが変わって作品の見方も変わるのだと思うから。
いつかの日を楽しみに待ちたい。