過去の記事を再アップしつつ、つっこんでみる
結局再開すると宣言してから約半年経っちゃったよ。。
自分のアウトプットへの苦手意識がブログを書くことのハードルも引き上げているんでしょう。書き始めてしまえば何とでもなるのにね。
そこで、0から1を生み出すのよりかはいくぶんか楽だろうという安直な発想から、過去に取り下げたり下書きに埋没させていた記事を活用することにしました。今回で終わるはずがないのでシリーズ化したいと思います~
では、さっそく!
なんとなく嫌いなことに手を出す日
嫌いなことはできるだけ避けていたい。でも、今日はなんとなく一歩踏み出そうと思い立ったわけです。思い立ったら吉日って言うでしょ。
今日挑んだ苦手意識のあることとは、主に二つあるのですが、その内一つはまさにこのブログを立ち上げること。
色んなことを深く深く思考しても、言語表出が苦手なので、大っぴらに発言することには腰が重かったのです。でも、それじゃもったいないって最近思い知らされることが多くて。ええいままよっ!とアカウント作っちゃったわけですよっと。
でも、あくまで予定は未定。だってこれ、徒然草だもん。
文字がはしゃいでるな~若いな~笑 ただ、つれづれなるままに○年放置したのは反省。やっぱり苦手克服できてないじゃんっていうね。でも、本職的に必要不可欠な資質なので、練習かねて今度こそ続けられるといいな。
さかなであること
IDとブログ名は電車の中でポポっと決めた。
IDは「不時着した魚」、ブログ名は「魚の徒然草」。
なぜ”魚”?
答えは簡単。昔から魚や両生類のウーパールーパーに似てるとか言われてきて、自分でもいつの間にかしっくりきていたから。『崖の上のポニョ』が流行ったときには、それにちなんだあだ名がつけられるし、人面魚とか呼ばれてたこともある笑友人曰く、別に見た目からではないらしい。たぶん、ちょっとグループから外れてみたり、冷めてる部分あったりが「魚っぽさ」だったのかなと思うけど、今となってはわからない。何にせよ、ふと与えられた自己イメージをいつの間にか私は内面化して、自身のアイデンティティに還元してしまったのだから不思議。
それから、”不時着”って何事?て話。
私は自分が地球外生命体のつもりでいる。もちろんこれは比喩であって、生物学的にヒトではあるんだけど。生きづらさとか、不満だらけでも、私は「ちょっと降り立つ場所間違えちゃったんかな」って考えると、なんだか一気に世界を見ることが楽しくなる。これだけ聞くと、俯瞰的でむかつくって人もいるかもしれない。でも、これは私だけじゃないと思っている。つまり、みんな違う”星”からやってきたと考えているということ。みんな自分の中に理論があって、たまたまこの星で出会って…同じ「ふつう」を持ってみたり、同じ言葉を使ったりしてるだけって。だから、元の星がめちゃくちゃ遠い人は全然違う「ふつう」があって、齟齬が生じるのは当たり前ってわけ。
文章が拙い!びっくり!ただ根幹にある考えは当時から変わってない。やっぱり私は”魚”でありたいと思うし、不時着の事実を忘れて、生じているはずのポリティクスに鈍麻になりたくないと思う。
大人になりたくなかった
子どものように感受性豊かで無邪気でい続けようと心に決めていたのに、いつの間にかその誓いさえ忘れていた。あんなにもなりたくないと思った大人になってしまったと絶望した。
空気が澄んでいれば嬉しくなるし、雲が流れていく様を見るのは楽しい。風が吹けばその向きに走ってみたくなる。雷が鳴ればそわそわする。星も月も毎日違うから毎日見たくて上を向く。
道端に季節の花が咲いてたら愛でたくなる。動物がいたら話しかけてみたくなる。
生きているものはみんな愛おしい。猫も犬も魚も蛇も虫もすべからく。
同じ鶯でも、ベテランとへたくそなホーホケキョ。 桜の木に登れば奇抜な色の毛虫がいて、ツツジも花の色も葉っぱの色もそれぞれ微妙に違う。小さなことに気づくとそれだけで幸せな気持ちになる気がする。
そういえば昔ゴキブリ見て、きれいだなあってしみじみ思ったこともあったな。あんまり共感してもらえないんだけど。
それに、いつも憤っていた。例えば理不尽さに、不公平な世界に。
つまらない顔して、口を開けば愚痴やら妬みやら吐き出す、そんな人間にはなりたくなかった。せかせか早足で、他人にぶつかっても気にも留めない人間や、信号が待てないような人間にはなりたくなかった。
賢くなって、自分が確立して、頑固になって、あきらめ早くなって、視界が狭くなって、挙句スマートに生きることがかっこいいんだと平然と言えるようになる…大人になるということがもしそういうことだとしたら、私は大人になんかなるもんかって思ってた。
自分の気持ちに素直で、色んなことに興味をもって、大小さまざまな夢を追って、がむしゃらにもがいていたいって思ってた。
そう思っていたはずなのに、ふと気づいた。
ずいぶん長いこと、落ち葉を踏む音も鳥のさえずりも聞いてないことに。都会であっても一等星くらいは見えるであろう夜空にも、季節ごとの花にも目が行っていなかったということに。
ニュースを見ても憤らなくなったのはいつからだろう。
気づいてしまったら絶望した。なりたくなかった大人になったんだってわかった。虚ろな目をした現代人の一人。
でも、私の中の子ども心はまだ完全には消えてないらしい。その証拠に、こんな絶望を抱いてる、大人でいいじゃんかとは思えない。
無理だと言われてもやり遂げたいことだってある。やりたいことなんて山のようにある。考えたらわくわくしてきた。
夕飯の香りがする。鈴虫の声がする。今日は富士山も夕日も見えないけど、月は出ていて空気が澄んでる。うれしい。
あー、久々にちゃんとニュース見てたらイライラしてきた。怒りはエネルギー。いつかのTEDでそう熱く語るスピーチに共感して、その時からこの気持ち大事にしようと思ったんだよな、誰のだっけ…
きっとこれからも子ども心を忘れる時はある、だってもう残念ながらオトナだからね。でもその度に思い出して、いつまでも”子どもオトナ”でいられたらいいなと思う。
これは文章としてまあまあなのでは笑
そして、ここで書いた思いもまた、今の私にも変わらずあるものです。本文締めで言っているように、たぶんずっと”子ども”ではいられないんですよね、残念ながら年齢はこの当時からさらに重ねているわけで、役割期待も変わってきているので。だけど、感受性豊かに、すなわち身の回りの些細な事を感じ逃さないように過ごすことや、憤りを大事にすることは、まあ合格点あげれるくらいにはしている気がします。
実は、去年引っ越したんですが、以前住んでいたところよりも周りに緑が多いからか虫も鳥も多くて耳を澄ますことが増えました。実家にいたころほどではありませんが。(あれは山なので笑)
相変わらず虫も平気です。潔癖気味なので、そういう意味で嫌で外に出すなり、ごめんなさいするのですが、見た目や動き自体はかわいく思ったり。
それと、憤るということについては、ちょうど去年の春先あたりに、自分のなかの心の余裕みたいのが生じて自分の立ち位置を見つめ直すことで、「私が今ここにいるのは憤りを言語化したいからだ」って思い出したんですよね。ちょっとこのころの話はまた改めてしたいな。
あと、ここでは「子ども」「大人」という区分を前提に話を進めていて、かつ「オトナ」という表記をあえて使っている。年齢とカテゴリーの含意するキャラクターが必ずしも合致するわけではないと前提を置いたことと、「子ども」を「未熟な大人」とみなし、「大人」に対して直線上に、しかも不可逆的に位置付けるとらえ方を採らなかったことは、評価できるんじゃないでしょうか笑 (最近、子ども社会学の文献をいくつか読んだので思考が引きずられている自覚はある。)
やってみて思ったんですけど、これ楽しいかもしれない…!
ぶつ切り感すごいけど、いったん今回はここまで!